異常気象の実態!季節の節目がなくなりつつある?

猛威を振るった伊勢湾台風!何故死者が多く出たのか?

台風15号・伊勢湾台風がもたらした被害は本当に昭和時代では想定外でした。伊勢湾台風の最大の特徴は気圧が895ヘクトパスカルと最も低い気圧だったのです。これを昭和の三大台風の中では一番強烈です。

その他の室戸台風1934年(昭和9年)9月21日では気圧が911.6ヘクトパスカル、枕崎台風1945年(昭和20年)9月17日では気圧が916.3ヘクトパスカルと記録されています。これでいかに伊勢湾台風がいかに強烈な台風だったかがお分かりになるかと存じます。

台風の怖さは気圧が低いことです。現代でこそ、テレビ、ラジオ、インターネットなどですぐに台風の進路予報を見ることは出来ても、昭和の三大台風にはそういった報道元は余りありませんでした。

では猛威を振るった伊勢湾台風ですが、どうして沢山の死者や行方不明者が出たのか、さかのぼってみましょう。伊勢湾台風では死者4,697人、行方不明者401人、けが人38,921人といった多大な記録が残されています。母も話してました。「多分伊勢湾台風は5千人近くの人が亡くなったかな?」まさしく母の言ってることは正解です。

母の実家は愛知県西春日井郡(現・清須市)ですが、伊勢湾台風で最も酷い被害を受けたのはやはり伊勢湾沿いの三河地区が特に集中しました。伊勢湾台風は南寄りの台風だったので、海水が伊勢湾、三河湾の奥に吹き寄せて和歌山県、三重県、愛知県の広い範囲で高潮が発生し、名古屋港に近い名古屋市南区では台風通過後2~3日は全然水が引かず、洪水が続きました。

その他愛知県海部郡、知多郡、名古屋市緑区大高町、東海市など海に近い地域ではもろに洪水の被害を受け、最悪家の屋根に上って命からがら逃げたとも言われます。

やはり海の近い地域へ行くほど被害が大きかったです。まだ昭和30年代と言えば、戦後の日本の経済がどんどん成長していく時代ではありましたがまだまだテレビなどを見る習慣というのは比較的少なく、台風の予想についての情報が現代の様にはいかず、乏しいものがありました。

勿論現代の様に「避難勧告」「避難準備情報」などの情報は全然ありませんでしたから、台風に備えるべきの知識もまだまだありませんでした。避難所もなかったわけですから、逃げることが出来ずに、洪水で家が流されてそのまま亡くなった人が多かったわけです。

その上運の悪いことに名古屋港の満潮の時間と重なったことも有り、ますます高波が押し寄せて名古屋港に当時保管されていたと言われる木材が流されて多くの住宅街がこの流木によって壊されてしまいました。名古屋市南区ではこの流木の大群によって1,500人の犠牲者が出たと記録されています。

やはり伊勢湾台風であれだけ多くの死者を出した原因は台風に対する情報源がまだまだ乏しかったことと、テレビ局などもまだ開局したばかりで現代の様に24時間放送してるわけでもありませんでしたので、どう対処するべきかまだまだ出来ていなかったんですね。それから地域の避難所が全然なかったことも言えますね。

唯一情報が頼りのラジオにしても、停電で一切使うことが出来なくなり、台風の状況が分からずじまいになってしまったのも、多くの死者を出した結果です。

伊勢湾台風の教訓で家庭のコンセントを使わないで済む「乾電池」の販売開始により、トランジスタラジオが誕生しました。このお蔭で住民は乾電池を使用することによって、いつでもどこでも情報を聞けることが出来るようになりました。

そして地震、台風などの情報源として、ラジオは生活に重宝されるようになりました。